| 開催日 | 2025年9月7日 |
| ゲスト | レイ・イナモトさん |
| 司会 | 原田 伸介 |
| コメンテーター | 稲本 正 |
今回のインタビューでは、稲本さんの原点とも言える“山奥の生活”から、“スイス留学・アメリカ進学”に至る大胆な人生の転機をうかがいました。
自然豊かな環境で育った少年が、どのようにして国際的な価値観とつながっていったのか。
その背景には、家族の独自性、文化との出会い、そして「人と違うこと」を肯定する姿勢が深く関わっていました。
1. 東京から山奥へ―すべては「ゼロからつくる」父の決断
稲本さんは東京で生まれましたが、幼少期を迎える頃、家族は家具製作会社の創業を機に山の奥へ移住しました。
自然と動物に囲まれた生活は、まるで北欧の片田舎のよう。
畑を耕し、ヤギや羊を飼い、家の中では母の機織りの音が響く。
その暮らしは、いま振り返れば “本物に囲まれた豊かな日常” でした。
「山の中を走り回り、川で釣りや泳ぎをした。あの環境は今の自分の支えになっている」
家の工房では、日本の伝統的な技術を使いながら、北欧デザインを取り入れた家具を制作。
地域の中でも独自の存在感を放ち、「よそ者」である家族にとっては、それが当たり前の日常でした。
2. 髪型校則に従わなかった―“自分で選ぶ”最初の経験
中学校入学時、男子生徒は五分刈りを義務付けられていました。
しかし両親は「髪型は個人の自由」と主張し、兄弟は村で初めて校則に従わない生徒になります。
当然、入学式では強烈に目立ち、先輩から声を掛けられることも多々あったと言います。
「でも、あれで“自分の意見を持ち、信じることを主張する大事さ”を知った」
のちに三男が生徒会長となり、この校則を正式に撤廃したというのも象徴的です。
3. 外国文化との接触―山奥なのに“世界”がやって来た
意外なことに、山奥の生活には国際的な空気が漂っていました。
・祖母は英語が流暢
・海外派遣経験も豊富
・家には外国人が遊びに来ることもあった
子どもながらに「外の世界」が日常の延長線にあったと言います。
両親や祖母からは「高校からは外に出なさい」と言われ、自然と海外への意識が育っていきました。
4. スイス留学―“違うことが当たり前”という価値観
最初はイギリス留学を目指しましたが、ビザの問題で断念。
その後、縁があってスイス・ルガノにあるインターナショナルスクールへ進学します。
生徒数わずか250人に対し、国籍は70カ国以上。
「日本では“みんなと同じ”が基準。
でもスイスでは“みんな違う”が基準なんです」
この多様性のど真ん中に身を置く経験は、価値観を根底から変えた―そう語ります。
日本では「同じであること」が安心につながりがちですが、スイスでは、
- 違っていて当然
- 違うからこそ価値がある
- 違いがアイデンティティになる
という考え方が揺るぎないものでした。
「今の自分の根っこは、あの頃に形成されたと思う」
5. アメリカ大学でアートとテクノロジーに出会う
スイスでアメリカ式の教育を受けたため、自然な流れでアメリカの大学へ。
芸術を学びたい気持ちから美術学部に登録しつつ、インターネットの時代の到来を見据えてコンピューターサイエンスも専攻しました。
大学時代には、日系アメリカ人デザイナー・ジョン前田氏へ勇気を出して連絡。
作品を見てもらい、直接アドバイスを受けた経験が大きな転機に。
「MITに通用するレベルではないけれど、プログラミングとタイポグラフィーを学べば道は開ける」
この言葉が、その後のデザイン・テック領域のキャリアへ進む決定打となりました。
双子だからこそ“別の道を行く”
双子の兄弟とは高校までは同じ道を歩んでいましたが、大学からは意識的に別の道へ。
「比較され続ける環境から離れ、それぞれ独自のアイデンティティを育てたかった」
兄弟は建築へ、レイさんはアートとテクノロジーへ。
“違うことを価値とする”という家族の精神がここにも生きています。
まとめ
山奥から世界へ―そのすべては「違いを恐れない」姿勢が導いた
静かな山奥での暮らしと、多文化環境のスイス、そしてアメリカでの学び。
すべては「自分の人生を自分で選ぶ」連続でした。
そして、その背景には常に家族の後押しと、“人と違うことを肯定する”強い価値観がありました。
次回は、
「大学卒業後から現在に至るまでの歩み」
そして
“共生進化”という思想へつながるキャリアの物語
をお届けします。
