| 開催日 | 2025年3月2日 |
| ゲスト | 藤森香衣さん |
| コメンテーター | 稲本 正 |
3月2日…翌日にひな祭りを控えたタイミングで配信されました。
ゲストは藤森香衣さん。稲本さんは「ひな人形みたいですね」と柔らかく迎えつつ、今回は藤森さんの“生い立ち”と“行動の原点”を丁寧に掘り下げていきました。
この回は、芸能活動の話だけではなく、家族から受け継いだ価値観、震災を機に動き出した理由、そして「自然と人間を俯瞰する視点」へと話が広がっていきます。
下町と羽田。川のそばが“遊び場”だった幼少期
藤森さんが育ったのは、いわゆる下町です。母方の実家は葛飾柴又のような地域で、代々その土地に暮らしてきた家系だといいます。父方も大田区の羽田で、最初は母方の地域で暮らし、のちに羽田へ移り住みました。
そこで藤森さんが強く覚えているのが「川の存在」です。川が近い環境で育ったため、子どもの頃は「どこにでも川べりがあるものだ」と思っていたそうです。東京育ちでも、川のそばで走り回り、外で遊び回る“おてんば”な子どもだったと振り返ります。足に擦り傷やあざが絶えないようなタイプだった、という言葉が印象的でした。
無口で厳格。でも、誰よりも静かに応援してくれた祖父
話題の中心になったのは、母方の祖父の存在です。祖父は無口で、とても真面目な人でした。親族が多い中で藤森さんは初孫だったため可愛がられ、祖父とも自然と仲が良かったといいます。
周囲からは「怒ると怖い」と言われていたそうですが、藤森さん自身は「祖父に強く怒られた記憶はあまりない」と語ります。祖父がきっちりした性格だった背景には、幼い頃の体験がありました。祖父は2歳で母を亡くし、その後お寺に預けられ、掃除や作法を通じて生活の基礎を叩き込まれたそうです。戦争体験もあったものの、その話を子どもたちに語ることはほとんどありませんでした。
しかし、祖父は言葉にしない形で藤森さんを支えていました。藤森さんがモデル活動を始めたことを、祖父は密かに応援していたらしく、後に祖父の持ち物から藤森さんの写真の切り抜きやスクラップが見つかります。その瞬間の「感動した」という言葉には、祖父の静かな愛情がにじんでいました。
祖父母から学んだ「約束を守る」と「人に尽くす」
稲本さんから「祖父母の姿勢の中で何を一番感じましたか」と問われ、藤森さんはまず、時間や約束を守ることの大切さを挙げました。
もう一つ印象的だったのは、「自分が大変でも、周りにしてあげる」という感覚です。家族が集まる場で、誰かのために自然と動く。尽くすことが“当たり前にできる人が身近にいた”と語ります。今の時代は、どうしても自分を優先する空気が強くなりがちですが、祖父母の世代には違う温度があった、という視点が心に残ります。
稲本さんもこの話を受け、日本人は良い意味で控えめで、人との関係性を大事にする文化があると述べました。欧米の「我が我が」の価値観は強い一方で、これからの世界はそれだけでは立ち行かない。だからこそ、日本的な“他者を大切にする感覚”をもっと広げる必要があるのではないか、と語ります。
藤森さんも、自分が今いろいろな活動を続けているのは、祖父母の「自分ができることは人のためにやってあげなさい」という姿勢を見て育ったからだと話しました。
「クォーターっぽいね」──スカウトがきっかけでモデルの道へ
藤森さんがモデルとして活動を始めたきっかけは、ハーフモデルの女性からのスカウトでした。その女性の子どもと藤森さんの弟が同じ幼稚園に通っていた縁があり、「雰囲気が似ている」「クォーターっぽい」という印象から声がかかったそうです。
実際には外国の血が入っているわけではないものの、見た目の印象から始まった芸能活動。学校と仕事の両立は簡単ではなく、周囲の視線も当然ありました。けれど藤森さんは、そこを過剰に悲観するのではなく、どこか冷静に「仕方がない」と受け止めていたと語ります。
11歳の頃はバブル期。仕事の現場では“子ども扱いされない”一方、学校では子どもとして過ごす。そのギャップの中で、物事を客観的に見る癖がついていった、という言葉がとてもリアルでした。
女子校への進学、そして「100周年」の節目に会長を務める理由
高校から女子校へ進学した理由も語られました。藤森さんは、仕事をしていると、男子がいる環境では余計な注目を集めやすいと感じたそうです。女子校の方が自分には合っていると考え、知人の先輩もいたことから進学を決めました。
さらに驚いたのは、藤森さんが卒業生会の会長を務めていることです。学校は創立100周年を迎える節目であり、藤森さん自身も「次の世代へ引き継ぐことを考えている」と語りました。
その学校は、女性がまだ選挙権を持たない時代から「女性がこれから活躍できるように」という理念で作られてきた歴史があるそうです。藤森さんの言葉には、学校への誇りと責任感がにじんでいました。
震災直後の“会話”が、森林年の企画につながっていった
この回で最も大きな転換点として語られたのが、東日本大震災後の出来事です。
震災直後、知人が企画していた「牡蠣を食べる会」は、急遽、持ち寄った物資を被災地へ運ぶボランティアの場へ変わりました。その場で出会った若い官僚の方に、藤森さんはこう話したといいます。
「寄付だけじゃなくて、復興するための手段や仕組みを考えた方がいいと思うんです」
その場限りの会話で終わると思っていたところ、後日「霞が関に来てください」と呼ばれ、関係者との面会へ。さらに「国際森林年の年だから、森林や木をテーマに何かできないか」という話につながっていきます。
藤森さんは当初「皆さんが主体でやるんだろう」と思っていたそうですが、気づけば企画の中心に立つ形になり、横浜と福岡で実施することになります。手探りで、ど素人の自分が進めることへの戸惑いもありながら、周囲に支えられて形にしていった経験が語られました。
自然は回復する。稲本さんが被災地で見た“再生の力”
稲本さんも、震災後に被災地を訪れた体験を語りました。火災の匂いが残る町、壊れた建物、そしてそれでも前を向く人々。現実の重さを感じたと言います。
さらに数年後、現地でホタテを食べた時の話が印象的でした。震災で海がかき回されても、自然は時間とともに生態系を更新し、自分で回復していく。一方で、人間が作ったものは壊れれば再建に莫大な労力がかかる。だからこそ、人間は自然の再生力からもっと学ぶべきだ——そんなメッセージが、言葉の端々にありました。
「俯瞰して見る」ことが、結局いちばん大事なのかもしれない
藤森さんは、影響を受けた本として手塚治虫作品に触れ、「宇宙から俯瞰して見るような視点」に惹かれると語りました。人間、自然、宇宙を大きなスケールで捉えるという考え方は、稲本さんの著書にも通じるところがあり、「行きつくところはそこなんだと思った」と感じたそうです。
稲本さんはその流れで、学校教育で自然や宇宙の基本をもっと教えるべきだと語ります。元素や生命の仕組みを知れば、人間も自然も同じ材料でできていることが分かる。にもかかわらず、他人を蹴落とす方向へ価値観が偏ってしまうのは、根本の理解が足りないからではないか——そんな問題提起がなされました。
「なりたくて目指す」より、「なってしまう」人生のほうが強いこともある
稲本さんは、自身が中学時代に野球にのめり込み「なれる」と思っていた過去を例に、人生には“なれないのに目指して苦しくなる”失敗もあれば、“本気で目指したわけじゃないのに、なってしまう”道もあると語りました。
藤森さんも、モデルとして「なろう」と強く願ったというより、流れの中でそうなっていった部分があると言います。そして森林年の企画など、芸能だけではない活動を重ねてきたことが、後に病気を経験した時の支えやエネルギーにつながったのではないか、と稲本さんは見立てました。
藤森さんは「情報が入ってくるからこそ、見えてしまって動けなくなることがある」としつつも、「自分のためではなく、人のためなら力が出る」と語ります。その結果、活動が続き、2016年にはNPOを立ち上げるまでに至ったそうです。
次回は「がん」の話へ。生い立ちの先にある“転機”が語られます
今回の配信では、藤森さんががんの手術を経験したこと、そしてその後に活動を続ける中でNPO設立に至ったことが触れられました。稲本さんは「がんになりそうにない人が突然そうなる」ことに衝撃を受けたと語り、次回以降、当時の心境や出来事を詳しく聞いていきたいと予告しました。
