「漢字はもう見たくない」から始まった―ピーター・バラカンが“日本の音楽案内人”になるまでの偶然と必然

開催日2026年1月4日
ゲストピーター・バラカンさん
コメンテーター稲本 正

「ピーター・バラカン」と聞けば、真っ先に思い浮かぶのは――
音楽を紹介する人。ラジオを中心に、長年にわたって世界中の音楽を日本へ届けてきた存在です。

今回の「共生進化ネット」では、そのバラカンさんがゲストとして登場。
稲本正しさんとともに、意外すぎる“来日のきっかけ”から、音楽の入口、そして人生の転機の不思議さまで語り合いました。

面白いのは、対談の出発点が「日本好きだったから」ではないところ。
むしろ、そこから真逆の話が始まります。


「日本に興味があったわけじゃない」——語学好きが選んだ“消去法の日本語”

稲本さんがまず触れたのは、バラカンさんの日本語の上手さ。
「もともと東洋や日本に興味があったんですか?」と尋ねると、返ってきた答えは意外にもこうでした。

「特にそういうことでもなかった」

高校を出て、大学へ行くか就職するか。
18歳で就職する気が進まず、「大学に入れるなら入ってみようかな」と思った――それが始まりだったそうです。

当時のイギリスは大学が基本的に無料。
有料なら親への負担を考えたかもしれないけれど、無料なら挑戦できる。

そして「何を学びたいか」は決まっていない。
ただ、語学は好きだった。

フランス語、少しロシア語、ラテン語や古代ギリシャ語が身近にある環境。
その延長で「もう少し挑戦になる言語を」と考えた結果――

消去法で日本語になった

この“軽やかな決め方”が、のちの人生を大きく動かすことになります。

地獄は文法じゃない。「漢字」だった

日本語の勉強で何が一番大変だったのか。
それは文法ではなく、圧倒的に漢字だったと語ります。

日本語の文法は、確かに英語とは違うけれど「そこまで絶望的に難しいわけではない」。
問題は、漢字は書かなければ覚えられないという点。

4年コースのうち、体感として3年半くらいは漢字だった

そして卒業する頃には、

「もう一生、漢字を見なくてもいい」

と思うほど、燃え尽きていたそうです。
この“燃え尽き”が、逆に印象的でした。
好きで学び始めても、本気でやると嫌になるくらい大変。
でも、その「大変な経験」が、後に“唯一無二の武器”になります。

「あと10日で来られますか?」—玄関の公衆電話が鳴った朝

大学を卒業しても、日本へ行く気はゼロ。
ロンドンのレコード店で働きながら、業界紙を毎週読んでいた――そんな日々の中で、転機が突然訪れます。

業界紙の裏表紙にある求人欄。
そこに載っていたのが、日本の音楽出版社「新興ミュージック」の募集でした。

同僚に「君を呼んでるよ」と言われ、半信半疑で手紙を出す。
面接では「採用しても日本語ができることは関係ない」と言われ、正直“ダメだろう”と思っていた。

ところが、約1ヶ月後。

ある朝、家の玄関にあった公衆電話が鳴る。
出ると、東京からの電話で――

「あと10日で来られますか?」

いきなりの一言。
航空券が届き、荷物を母親の家に預け、気づけば来日していた。

人生って、努力や計画の線だけじゃ決まらない。
「変な決まり方をする時がある」
二人がその感覚を共有していたのが印象的でした。

最初は“音楽紹介”じゃない。著作権の会社員だった

日本に来てすぐ、ラジオの人になった――と思いがちですが、実は違います。
最初は会社員として、音楽出版社で著作権関連の仕事を約6年。

海外の音楽出版社との英語の手紙のやり取りが多く、
正確なビジネスレターを書ける人材が求められていた。

つまり、新興ミュージック側が欲しかったのは

  • “日本語ができる人”ではなく
  • “英語でビジネスができる人”

ここに「先見の明があった」とバラカンさんは振り返ります。
当時はまだ、そういう人材を入れる会社が多くなかったからです。

そしてラジオへ:飲み仲間の一言で人生が動く

音楽の紹介を仕事にするきっかけは、これまた“人の縁”でした。

新宿で働く中で音楽業界の仲間が増え、仕事終わりに飲みに行く。
その仲間の一人がラジオ番組の構成作家で、新番組のオーディションに誘ってくれた。

最初は緊張して落ちる。
でももう一度誘われ、そこで採用。

最初はメインDJではなく、映画紹介を担当していたDJのアシスタントとして2年間番組を担当した。
これが、音楽を届ける“バラカンさんの仕事”の始まりでした。

「若い頃に聴いた音楽は離れない」——記憶の芯に残るもの

対談の後半は、音楽の話がぐっと個人的になります。
稲本さんは戦中生まれで、小学校までほとんど音楽を聴かなかった。
「敵の音楽だから放送しちゃいけない」時代の空気があったからです。

ところが高校で下宿を始め、自由になった途端に反動で一気に聴き始めた。
夜通しラジオを聴いた。
プロコル・ハルムや60年代の洋楽を浴びるように聴いた。

そこで二人が強くうなずき合ったのが、この話。

10代〜20代前半に聴いた音楽が、一番心に残る

今でもYouTubeやSNSでその頃の曲が流れると、つい聴いてしまう。
音楽は、情報じゃなくて“記憶の芯”に刺さるものだ。
そんな感覚が、会話の端々に出ていました。


次回予告:バラカンさんが紹介する“ちょっと変わった音楽”へ

今回はここまで。
次回以降は、バラカンさんが日本で海外音楽を紹介していく流れや、
彼が好んで取り上げる“少し変わった音楽”の話を本格的に掘り下げるそうです。

「日本好きだから来た」ではなく、
「消去法の日本語」から始まり、
「玄関の公衆電話」一本で人生が動き、
会社員を経て、ラジオへ辿り着く。

この流れ自体が、国境を越える“生き方”の実例でした。

次回の深掘りが楽しみです。